医師会について

沿革

 大阪湾の北岸、武庫川から生田川までの海岸地帯を昔から灘と呼んでいました。播州名所巡覧図絵には「灘帆浦住吉より生田川に至るを大灘という。住吉より西宮に至るを中灘という。浦には船を泊めるによろしからず」と記されており、海流の早いところという意味のようです。江戸時代の寛永末期より本格的な酒造が始まり、灘五郷の灘目酒として全国的に有名となり、現在に引き継がれております。

 明治22年、町村制が実施され、都賀川より西の10カ村が合併して都賀野村に、東の7カ村が合併して六甲村に、新在家村と大石村が一緒になって都賀浜村になった。後に都賀野村は西灘村、都賀浜村は西郷町と名を変えましたが、昭和4年4月、3町村とも神戸市に合併されて灘区が行政区として誕生しました。これに伴い神戸市医師会に灘部が認可され、現在の灘区医師会の根源の誕生となりました。

 第2次世界大戦下昭和17年の国民医療法の実施に伴い、神戸市医師会灘部の解消および兵庫県医師会灘支部への移行もありましたが、昭和20年に終戦をむかえ、21年の新憲法公布、そして22年の官制兵庫県医師会の解散から新制兵庫県医師会の発足に伴い、昭和23年4月社団法人灘区医師会の新たな歴史がスタートしました。これをもって、現在の灘区医師会の設立としております。(灘区医師会史、創立50周年記念誌より引用)